昨日、フェイスブックのあるコミュニティーに参加登録してみた。ハードロック/へヴィーメタル好きが集まるコミュニティーである。好きな曲やグループを教えあったり、紹介しあったりするサイトで、バンドやっている人はライブの告知に使っていたりする。
とりあえず、挨拶も兼ね、投稿してみた。ICONという80年代初期LAメタルが盛り上がりを見せかけた時期に現れたバンドで、彼らの名曲「UNDER MY GUN」を紹介した。あまりメジャーになれなかったバンドなので、どのような反応があるかと思い、様子を見た。しばらくすると、3人の方が「CD持ってた」「浴びるように聴いた」「曲が良い」など、共感のコメントをしてくれた。更に、お互いコメントし合い、「アルバムのあの曲が良かった」など教え合っているのだ。予想外の反応だった。
その後も、面白がり、色々な好きな曲を紹介していたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。こんなに夢中になったのは久しぶりである。童心に帰った感じだ。ハマるとはこうゆうことだと改めて思った。
コメントしてくれた方が、どの様な方だろうと、見てみると、同年代の普通の会社員らしき方、公務員のような方もいる。
昨年、WINGERの来日公演に行った時も、周りはそのような感じの普通の人ばかりだった。初老の男性、女性、恰好も普通の普段着だったり、仕事帰りのようなスーツの方もいる。一般的にイメージされるような皮ジャンを着て刺青をし、ロン毛をなびかせているようなファンは一人もいない。せいぜい、黒いバンドのロックTシャツを着ている人くらいである。皆静かに楽しんでいる。私もその中の一人だったりする。
なぜこのようになるのだろうと考えてみる。やはり、社会が豊かになり、質の高い選択肢が増えたお陰で、個人が自分の気持ちにピッタリ合うものを探し求める時代だからなのだろう。だから、「普段は会社で部長をやっているけど、音楽はへヴィーメタルが好きで、昔練習したイングヴェイのギター演奏を、ユーチューブに投稿するのが趣味です」みたいな方が現れるのだ。
つまり「AならばB、BならばC、だから、AならばC」という論理が、人間の心には必ずしも当てはまらない。どちらかというと、「AならばB、BならばC、だけど、AならばD」という感じだ。この、「だけど」「にもかかわらず」という逆説の接続詞に、人間の強い自由意思を感じる。
自分で勝手に決め付けずに、まだ見ぬお客様のために、頑張ろうと思った。