今、近隣でリフォーム工事が行われている。そこに住む依頼主は、塗装屋に直接相談し、工事を進めているようだ。塗装屋が元請けということである。工事内容は、木枠・室内側コンクリート躯体部の塗装と畳床をフローリングにする工事を行うらしい。最初、塗装屋の親方と若い職人の二人が作業を行い、塗装工事が終わると、大工が来た。現在、親方と大工の二人が現場にいる。親方に話を聞くと、団地の自治会の仕事をよく請け負っているらしく、団地内の街灯の支柱部分の塗装工事を行ったと話してくれた。
当然、設計監理者はいない。そもそも、設計図面がないから、確認のしようがない。そこには、事前に工事内容を確認するほどでもないという暗黙の前提が、依頼主と親方の間にある。
依頼主には、注文した通りに工事が行われるだろうという期待がある。親方の方には、相談を受け、確認した工事を行えば良いという判断がある。完成後、依頼主の期待と親方の判断が、一致する部分が大きければ、無事工事が終了する。依頼主は用意されているカラーバリエーション中からメーカー商品を選ぶだけなので、親方が大きな勘違いを起こすことはまずない。たいていのリフォーム工事は、このように行われている。
問題点を指摘するなら、分析というプロセスが抜けている点である。依頼主の判断に基づき、工事内容が設定され、その方向性に沿って、親方は工事を実施する。しかし、依頼主は自分の問題を自分で判断しているが、適切な判断がなされているのだろうか、と私は疑っている。
そのような工事を、次のように考えてみてはどうだろう。具合が悪くなったので、ドラッグストアーで薬を買って飲み、健康を取り戻そうとする試み。医療行為における、診察が抜け落ちている行為である。具合が悪くなったことに気づき、行動した所までは良い。しかし、医者の診察を受けずに、自分の判断に基づいて薬を処方した点に疑問が残る。
設計事務所の存在意義は、そこにある。